2006年 02月 25日
ベルリン |
ドイツ駐在になって結構時間が経っているが、この度家内の強い希望により「ベルリン」訪問を行うことにした。ベルリンと聞くと、ただちに「壁」といわれる方が多いと思います。その壁について・・・
第2次大戦でドイツと戦ったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国はドイツを分割して占領。首都だったベルリンも、4か国の間で分割。ソ連がベルリンの東側半分を取り、米英仏は西側半分をほぼ3等分して占領。その後、米英仏とソ連の対立が決定的となるにつれ、その影響は分割占領されていたベルリンにもはっきりと及び、西ベルリンと東ベルリンの体制の差が悲劇の壁を作ったといわれております。
ベルリンの壁は、東ドイツ&西ドイツの国境を示すものと勘違いされていると思うのですが、現実は「西ベルリン全体を東独の中で封鎖し、孤立化させたもの」です。だから壁は西ベルリンの周囲ということになります。
壁は1961年8月13日に150キロもの距離を一夜にして作り上げたと言われております。午前零時を期して東ドイツの警察などが動員され、まずは境界線にある道路の閉鎖から始められました。有刺鉄線を張ることで道路を塞ぎ、人や車の交通を遮断しました。さらに銃で武装した兵士が見張りに立ちました。また境界線のずっと後方では不測の事態に備えてソ連軍の戦車も配置についていました。
鉄条網による封鎖が完了してから、いよいよコンクリートブロックなどを使った壁の構築が始まりました。その後、徐々に監視体制を強化するために監視塔や照明灯などいろいろな設備が作られていきました。
「壁」は単に障害物としての存在だけでなく、西ベルリンを周囲から完全に切り離し、東側からは絶対に越えさせないようにするための道具となったのです。そして、そうすることで東独の市民にとって西ベルリンは存在しない街、存在してはならない街になったのでした。事実、東独が発行したベルリンの地図の中には、西ベルリン部分は空白になっていて、道路も鉄道も記されていなかったそうです。
第2次大戦でドイツと戦ったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国はドイツを分割して占領。首都だったベルリンも、4か国の間で分割。ソ連がベルリンの東側半分を取り、米英仏は西側半分をほぼ3等分して占領。その後、米英仏とソ連の対立が決定的となるにつれ、その影響は分割占領されていたベルリンにもはっきりと及び、西ベルリンと東ベルリンの体制の差が悲劇の壁を作ったといわれております。
ベルリンの壁は、東ドイツ&西ドイツの国境を示すものと勘違いされていると思うのですが、現実は「西ベルリン全体を東独の中で封鎖し、孤立化させたもの」です。だから壁は西ベルリンの周囲ということになります。
壁は1961年8月13日に150キロもの距離を一夜にして作り上げたと言われております。午前零時を期して東ドイツの警察などが動員され、まずは境界線にある道路の閉鎖から始められました。有刺鉄線を張ることで道路を塞ぎ、人や車の交通を遮断しました。さらに銃で武装した兵士が見張りに立ちました。また境界線のずっと後方では不測の事態に備えてソ連軍の戦車も配置についていました。
鉄条網による封鎖が完了してから、いよいよコンクリートブロックなどを使った壁の構築が始まりました。その後、徐々に監視体制を強化するために監視塔や照明灯などいろいろな設備が作られていきました。
「壁」は単に障害物としての存在だけでなく、西ベルリンを周囲から完全に切り離し、東側からは絶対に越えさせないようにするための道具となったのです。そして、そうすることで東独の市民にとって西ベルリンは存在しない街、存在してはならない街になったのでした。事実、東独が発行したベルリンの地図の中には、西ベルリン部分は空白になっていて、道路も鉄道も記されていなかったそうです。
by troutbum2000
| 2006-02-25 03:12
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